二宮尊徳・安居院庄七
JAはだのは、協同組合の原点「報徳」を広めた郷土の先人に学び、農業振興を基本に、豊かな社会づくりに取り組んでいます。
では、江戸時代後期に「報徳」という相互扶助の考えの下、多くの農村復興に携わった神奈川県小田原市出身の二宮尊徳。その教えを広め、実践した秦野市出身の安居院庄七。2人はどんな人物なのでしょう。
二宮尊徳
二宮尊徳(通称「金次郎」)は、日本の協同組合運動の先駆けとして、江戸時代後期に報徳思想を唱え、報徳仕法と呼ばれる農村復興政策を指導した農政家です。
尊徳は小田原市の農家に生まれ、5歳の時に大洪水で田畑が耕作不能になり没落、14歳で父、16歳で母が他界し兄弟は散り散りに。金次郎は伯父の家の手伝いをしながら成長していきました。24歳の時に借金を返済して田畑を取り戻し、家を復興させます。この頃から「尊徳」を名乗り始めます。家を再建した尊徳は武家に頼まれ、財政再建や農村の復興に手を貸し、功績を積んでいきます。尊徳の評判が各地に広まると、弟子がたくさん集まり、各地に出向いて指導することもありました。幕府の命で財政改革の指導や土木工事にも携わり、多くの農村を復興していきました。
尊徳の教え
「至誠・勤労・分度・推譲」を行っていくことで、人は初めて物質的にも精神的にも豊かに暮らすことができるというのが報徳の根本的理論です。「至誠」とは誠実な心。人は「勤労」から学び自分を磨く。「分度」は、自分の置かれた状況をわきまえ、慎み節約すること。「推譲」とは、節約して余った物を自分の子孫と他人や社会のために譲ることを言います。飢饉で食べるものもあまりなく、各地で一揆が起っていた時代に、人々が自力で助け合って、暮らしと村を再建させた報徳思想は、"弱いもの同士が助け合って幸せな暮らしと社会を築く"という相互扶助の考え方であり、今日の協同組合の原点ともいえます。
安居院庄七
安居院庄七は、二宮尊徳の教えを、静岡県をはじめとする各地で広め実践した秦野市出身の人物です。
庄七は秦野市蓑毛で生まれ、穀物商を営む安居院家に婿入りします。結婚当初、商売は順調でしたが、米相場に手を染め、失敗を繰り返していきます。この頃の庄七は金儲けばかりを考える、「報徳」のかけらもない人物でした。
数え54歳の頃、お金に困っていた際に、高利の借金を整理させ貧乏な農民を救済しているという二宮尊徳の話を耳にし、尋ねました。滞在中に面会できなかったものの、聞こえてくる尊徳の講話や、来訪者や門人たちの会話、門人同士の話から教えを学びとり、尊徳の姿に心を打たれます。そして、一度死んだ気持ちになって人生のやり直しを決意。門人たちから尊徳の教えを聞き、書物を書き写すなど猛勉強をしました。
秦野に戻ってからは、商売を再開。公正で質の良い品物を薄利多売することを心掛け財産を取り戻していきます。また、その頃の秦野は、一揆こそないものの飢饉に見舞われ農民は苦しい生活を送っていました。庄七は商売の合間を縫って、村人の救済と地域の復興に取り組み、「村人の協力」「助け合い」すなわち相互扶助を指導していきました。
その後も、農業の最新技術・経営を学び普及し、協同の目的のため活動する組織づくりについて説き、「報徳社」を設立しました。
庄七の代表的な道歌
庄七の歌碑
この歌は、庄七が毎日の生活の指導において、人々の教えを導く上で一番基本的な考え方を示したものです。乱杭とは、川辺に立てた杭。その杭には、長いものや短いものといろいろあって、川の水の流れ、水の量をうまく調整し、勢いをやわらげることで、長短の杭全体が護岸や堤防を守る働きをしているという訳です。人間は十の心が全般にわたって一番良いのだが、そんな人はいない。人の心は七つの心、五つの心、三つの心の人もいるだろう。人それぞれの思いや考え方、知識はいろいろ違っても、お互いが理解し合い、助け合い、補い合うことで十の優れたものになっていく。すなわち、人は互いに理解し合い、助け合うこと、協同することで大きな力を発揮することができるという、今日の協同組合精神そのものの教えを説いています。